2011.01.05 (Wed)
【つるかめ物語 邪ま篇03】
More・・・
「じゃあ、おらに乳をくれたきれいな女というのはおまえのことだったのか」
小屋に戻って、ふたり。いつの間にかとっぷりと日も暮れて、手早く整えた夕餉の粥をすすりながら、与太郎は、いまわのきわに言われた占い婆の言葉を思い出して言った。
(わしゃ見ぬふりをしておったがの、赤子のおまえが腹をすかせると、どこからともなく現れて乳をやる、母を恋しがって泣くと、あやしにくる、それは美しい女がおったのよ。)
(与太郎、おまえのおっかさまはきっと龍神様におまえを託して逝ったのだわえ…だから、きっと案ずるな)
(おまえは神に愛された子じゃ)
「女ではない。俺には性別などない」
気まぐれだったのだ、と豪奢な姿があばら家にそぐわない乙姫は言った。
「おまえの母がなかなか興味深かったので、それの真似事をしたくなっただけだ」
そう、気まぐれだったのだ、と乙姫は思った。
海溝の穴倉から貌を出して、瀕死の母親のまわりをたゆたうと、あの女はこわい目をして乙姫を見た。
多分、おのれの命と引き換えに、子の命乞いをしたのだろう、と思った。
愁嘆場に興味はなく、人間どもの生き死ににも特に思うところはなかった。
体を引いて、海溝内に退こうとした時、母親はそれを察して狂ったように追ってくる気配を見せた。
その尽きようとしている命の足掻きが心地良く、乙姫は少しだけ心を動かされた。
(……女、何と引き換えに、何を望む?)
母親は、乙姫の言葉に少し驚くと、かたく抱きしめていた赤子に頬ずりし、思い切ったように乙姫に向かって手放した。
両手をよじり合わせて、ひたすらに伏し拝む。
そうして、彼女は、最期の力を振り絞り、舌を噛んだのだった。
その潔い姿にまた少し心を打たれて、龍体を凝らせた乙姫は人の姿をとり、子を引き寄せて抱き上げた。そして女を覗き込み、本人も気付いていないだろうやさしい微笑みを浮かべて、女を安心させるように囁いた。
(あいわかった。おまえの望みは果たされる)
唇のはたから赤い血が海にたなびいてゆく姿が美しかった。
いまわの際の女の顔が、安堵に照り映えて微笑を浮かべたまま、急速に生を失っていった。
乙姫は、村の上空に蟠っていた雨雲を吹き払い、亀に姿を変え、赤子と共に海を出た。
ちっぽけなものとの出会い。しかしそれは、永い時を孤独に過ごした一柱【ルビ『一柱』→ひとはしら】
の、孤独の終わりでもあった。
(十六年の歳月…)
乙姫は与太郎を寝かしつけながら、中空に輝く月を眺めた。
気まぐれを起こし、海を出てから、まばたきする間に、赤子は少女へと成長を遂げた。
与太郎の母との契約はあれど、正体を明かす気はなく、こうして人に変化した姿を見せる気もなかった。
神なる身にとって、人間と過ごす時間など、まさにひとつ欠伸をする時間に等しい。
その成長を見守り終えれば、乙姫は海に還って、かつてのようにひとりで在る生活に戻るまでだった。
しかし…。
過ぎる年月が、おのれを臆病にしている事を、乙姫は自分に認めた。
欠伸ひとつする時間が費えた時のことを、自分がひとりに戻ってしまった時のことを、与太郎がいなくなってしまった時のことを思うと、どこかがとても痛むような気がして恐ろしかった。
亀姿の自分を攫った少年たちの思惑に、半ば協力するような形でなすがままとなり、与太郎が罠にかかるのを眺めていたのも、早いうちに禍根を断てば、囚われの意識を解放できるかとの算段からだった。
結果は、この有様である。
おのれのために少年らに自分を売ることも躊躇わなかった少女への思いがいや増しただけであった。
与太郎が寝息を立て始めるのを確認して、乙姫は立ち上がった。敏感にそれを察した与太郎が、無意識に乙姫の衣の裾を掴む。
「…どっか、行くのか?」
「………」
乙姫は、薄目で目を擦りながら言う与太郎を見た。
縋るように自分を見る、この頼りない存在。
乙姫はつとしゃがみ、衣の端を掴んでいるその手に触れた。
そのまま、頭を撫でる。
うつ伏せて半身を起こした与太郎は、引き寄せられるままにその胸に顔をうずめた。
(可愛いのだ、いとおしいのだ、俺は、この存在が)
あの母なるものと同じように、あの思いが乗り移ったかのように。
「ずっと、傍にいてくれたんだな、レン」
与太郎は、頬ずりしながらさらににじりより、乙姫の感触と、その香りを嗅ぎ、体と体がはまるような充足感にうっとりと囁いた。
「…なぜおまえは、俺をレンと呼ぶ」
乙姫は、腕の中にすっぽりと納まる華奢な体を抱きしめてその髪を撫でながら、髪にくちびるをよせた。
「占いの婆が言うただ、おっかあの眠る浄土には蓮という綺麗な花が咲き乱れてるって、だから」
「…………」
「…あ、でも、乙姫さまって呼ばなきゃいけなかったらそうするだよ」
慌てたようすで与太郎が言うのへ、乙姫は無言で虚空に手を伸ばした。そのまま空を掴む仕種をすると、その手には鮮やかに花弁をひろげた蓮の花が握られていた。
「これが蓮の花だ」
「わあ…」
与太郎は目を丸くしてそれを受け取り、大事そうに両手で目の前に掲げ、うっとりと眺めた。
「おまえは俺に名を付けた。…俺もおまえに名をやろう」
頭を撫でられた与太郎が乙姫を見つめる。
「村のものどもがつけた忌み名など捨てるがいい。いまからおまえは、キョーコと名乗れ」
今日の子。
きのうまでの事は忘れ、明日からの事は知らず。いまこの時、今日をともにある子。
…乙姫は自分だけの意味を込めて与太郎をそう呼んだ。
「おまえはバカだから、俺が見ていないと危なくてならない」
心が痺れる、やさしい悪態。
「俺から離れるな。俺の傍にいろ」
キョーコは、その言葉に笑みを浮かべ、目を閉じたままゆっくり頷いた。
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック